2017年04月26日

まんが親5巻(吉田戦車)

まんが親 5巻



「まんが親」5巻読了。最終巻。

すっかり大きくなっちゃって、子どもゆえの突飛な感じは無くなって
立派に自分で考えて行動して影響されたりされなかったりして楽しそうに暮らしているね。
どのエピソードも良かったけど、誕生日プレゼント(のイベント)が気に入らなくて
「来年はそうだんしてね」って言いながら親に付き合ってくれるところとかがいいな〜って。
posted by 藤村阿智 at 10:08| マンガ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月18日

【この世界の片隅に】すずさんと劣等感

最近思いついて、だんだん「ああ〜そうなのかもな」と深まっていた考えを
忘れないうちにメモしたいと思う。

ほんとに個人的な、思い付きなので、「全然そんなことないだろ」とか
考えすぎているところとか
的外れなこともあると思います。
こういった見方もあるんだな〜ということで読んでみてください。

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その他の関連長文メモ
映画「この世界の片隅に」感想(随時加筆)
http://honyonda.seesaa.net/article/444225969.html


この世界の片隅に(こうの史代)読み返し感想・メモ
http://honyonda.seesaa.net/article/441069333.html

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■すずさんと劣等感

ふと、「この世界の片隅に」は、すずさんが劣等感から少しずつ救われる話なのかもしれないな、と思い立った。
そんな風に思いたくなったのは、私がそもそも劣等感の塊を抱えたまま40年近く生きてきて、まだその塊が消えていなくて、「この世界の片隅に」に心がひきつけられる理由は、「すずさん」に似たものを勝手に見出したせいなんじゃないかと考えてしまったから。
(物語の感想で「キャラクターに感情移入できた・できない」は嫌いな視点なのだけれど。)
単純な「感情移入」じゃなくて、実際にそうなんじゃないかと思ったところをメモしてまとめてみる。

★ぼーっとした子

原作だと「冬の記憶」の最後に「わたしはよく人からぼうっとしていると言われるので」とモノローグ、
映画だと冒頭で「うちは よう ぼーっとした子じゃあ言われとって」冬の記憶の終わりは「うちはぼうっとしとるけえ、あの日の事も」で結ばれる。

映画のほうはより強調されているけど、「ぼーっとしている」をいい意味で言う人はいないと思うし、
何度も言われてるうちにすずさんは「わたしはぼーっとしているんだ」と思い込んでいるんだろう。
映画の後のセリフは自分で自分の「タイプ」を断言しているように聞こえる。

★鬼ぃちゃん

鬼ぃちゃん(お兄ちゃん)は妹であるすずを、ことあるごとに怒鳴り散らしているようだ。
原作や映画で見られるように、怖いけど一理もあるという、叱られてもしょうがない状態にすずさんがいるように見える。反論せずとも「そうかもな、自分がわるかったところで叱られてるんならしょうがない」と何度も思っているんじゃないだろうか。

★すみちゃん

かわいくて、次女だし、活発そうでできもよさそうな一つ年下の妹のすみちゃん。
比べられることもあったかもしれない。
北條家から結婚を申し込まれた時も、「すみちゃんかもしれない(私が選ばれるはずがない)」と思ってる節がある。

★ふつつか

結婚するとなってもすずさんは親に「ほんまにふつつかじゃ、大丈夫かね」と心配される。
すずさんは社交辞令でなく、「ふつつかものですが……」と自分のことを思い込んでいるかも。

★径子おねえさん

義理のお姉さんにも冴えない、気遣いがない、と叱られてばっかり。
(径子さんも実際はあんまり家事が得意じゃないようだ)
モガで、自分のことは何でも自分で決めて、行動力のあるお姉さんを素敵だと憧れつつ、
やはり自分は冴えないのだと再確認させられるような存在なんじゃないか。

★化粧慣れしてないすずさん

自分に自信がないと化粧やみなりがおろそかになるというのがあって、
すずさんは無頓着なだけ……と言うのもキャラクターづくりとしてはあるとおもうけど、
「うちがきれいにしたって……」と言う気持ちもあったりしないかな?
子どものころから周りよりおしゃれ(流行の恰好)をしてないようだし、化粧をして出かける、
年相応の恰好をするなどは苦手なようだ。
そんなすずさんが、紅を引くきっかけはいつもリンさんから。


すずさんがとくに主張もなく知らない家にお嫁に来たり、粛々と苦手な家事をこなしたり、
嫌味を言われてもとっさに怒りを表現できなかったり(たぶん怒りに気づいてすらいない)
得意な絵も描かなくなっていくのは、「自分は大したものじゃない」と思い込んでいるからなんじゃないか?
子どものころに「そんなことじゃ嫁にいかれんで」と言われ続けたら
「そうか、嫁に行かれんのか、じゃあそうなのかもな」と思っているんじゃないか?


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■すずさんが救われるシーン

やはり、そういう救いや癒しのシーンは印象的に描かれていると思うし、
観た人の心に残る演出があると思う。

★周作さんの存在

「冬の記憶から」「しあはせの手紙」まで、ずっとずっと夫の周作さんはすずさんを救って癒し続けている。
できんことをできんと言われ、笑われることもあっても、できると思ってなかったことも
どんどん見つけてくれているんじゃないか。必要として、求めてくれる初めての人になっているんですよ。
それもどうやら便利な嫁としてじゃないようで、ことあるごとに「最良の選択」「選んだ」「楽しい」と伝えてくれる。

私、知ってるんですよ……一度劣等感の塊を持ってしまうと、なにか自分を肯定するような出来事があっても、
その「いいこと」はすぐに蒸発して薄れていくのに、手元に劣等感の塊は存在していて、「あ、やっぱだめだ私って」ってなっちゃうんで、何度でも、何度も何度も、同じような「必要だ」「ほしい人間だ」と言うようなことを表明してくれないと、劣等感の塊に自分が勝てないんですよ。「自己を肯定する・認めてくれる塊」も出来上がってこなくちゃ、いつまでもつらいんですよ。
そこから抜け出し始めた状態が「ありがとう、この世界の片隅にうちを見つけてくれて」なんですよ。いままで自分でも存在を感じられなかったこの世界で、ようやく誰かに「自分がそこにいる」ことを見つけてもらえたということを言葉にできたんですよ……

★スイカ、「優しいね」といわれた想い出

夏の日に、祖母から言われた「すずちゃんは優しいねえ」という一言が、どんなにすずさんを救ってきたか。
おばあちゃんは「それではお嫁にいけない」と言い放った人でもあるけど、きっとすずさんはこの想い出を大事にしていたんだろう。

★絵を描いて喜ばれた記憶

水原さんの絵を代わりに描いてあげた時も喜ばれたんだろうけど、うまいねえと言われながらも鬼ぃちゃんからは「落書きせにゃぁすむ話」とバッサリだし、賞を取った絵は水原さんが描いたことになってたから本人は褒められなかっただろう。
そこでリンさんの登場ですよ。あんなにイラストの甘味に興奮して次々絵をねだる!絵描きにはうれしい反応です!
同じくテルちゃんの反応もね、喜んでもらえたという自信につながると思うのです。
また、喜んでいたと伝えてくれるリンさんもいいですね。

★この世界に居場所はそうそう無うなりゃせんよ

これは誰がどう見ても。
そして初めて見た時から、すずさんより私が救われてしまった言葉だけれども。
こんなに一番下のほうから救い上げてくれる言葉はあるでしょうか……


★「普通じゃ」という水原さんの「誉め言葉」

「すずさんは普通の女性なんかじゃない。一般より優れた女性だ」という感想も見かけたけど、ここはすずさんが一般的な女性と比べて普通かどうかと言う問題じゃなく、すずさんが自分をどう思っているかと言う視点から考えてみる。
いままで述べてきた通り、すずさんは自分を「冴えない、できない」と思っているようだ。
そんなすずさんには、水原さんによる「普通じゃのう、お前ほんまに普通じゃ」という評価はうれしかったんじゃないだろうか。落ちこぼれじゃない、なんかが立派だというとにわかに信じられないかもしれないが、とにかく普通であると。
「私でも人並みかな?」って言うのはうれしいことだと思うのだ……しかも、昔さんざん悪態をつきあっただろう水原さん、ちょっと好きだった水原さん、自分を選んでくれなかった水原さんが会いに来てくれた上に「普通だよ」って好意を込めて言ってくれるなんてすごく癒されませんか。
うれしかったと思うなあ。
でもそれ以上に周作さんとの関係、北條家に嫁に来たことで得た自己肯定感が、水原さんに向けて放り投げられた(ような気がした)ことで周作さんへの怒りが勝っちゃうシーンでもありました。
それでも「それもまた普通だ」と言ってくれる、水原さんもなかなかの男です。


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■うがった見方で……



すずさんが(無意識に)劣等感から解き放たれたんじゃないかと思った箇所


★北條家の家事の中心は自分であるという使命感と責任感

義理の母のサンさんは足を痛めていて(おそらく一過性のものではなく)家事が思うようにできない。
お義姉さんはお嫁にいきんさって家におらん。
ほかに女手なし。
張り切って、生き生きと工夫しながら家事を楽しもうと思えるのは、一番元気で動けるのが自分だ、頼りにされているという高揚もあるんじゃないか。


★みんな死んでいく

本当に、こんな風に言うことは悪いのかもしれないけど、
すずさんより強かった人たちがだんだん周りからいなくなっていくんですよね。
すずさんが自覚しているのは「鬼ぃちゃんが死んでよかったと思ってしまっている」という歪みだけだけど……
もしかするとその後の、広島にあったことはさらに心を動かしたかもしれない。
だからこその「強くなりたい、暴力に屈しない」かも。映画のほうだと「暮らすのがうちらの戦い」とまで言うのが本当に怖く感じてしまう。

いわゆる「闇落ち」状態にすずさんが一番なっていたのは、晴美さんを失い、けがをした自分が生活の何も思うようにできず、自分を肯定できるようになってきたすずさんからまたたくさんのものが奪われて、怖くなった時なんじゃないか。
実家方面の悲劇のあとは、すずさんは(きっと心が高ぶって)人が一時変わったようになる。


いろんな意味で……「かなわない」人がいなくなった時が、劣等感からの解放につながるんじゃないか?

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だらだらと書いた上に最後はかなり穿った見方になってしまった。
そんなんじゃないかもしれないし、少しはあるのかもしれない。


「夕凪の街 桜の国」でも皆実さんは、自分だけ生き残ったことに罪悪感を感じて、
人並みの幸せを手に入れることを躊躇している。
「長い道」の道さんは、過去の「幸せになれなかった・否定された」経験から、自分は幸せになってはいけないと思い込んでいるのか、あまり自分を大事にしていないように見える。

そういう人たちが過去から解き放たれて、少し前を見れるように、自分の好きに生きることを考えられるようになったところで物語は終わっている。

同じものが「この世界の片隅に」に見えてきても不思議じゃないと思ってしまう。


posted by 藤村阿智 at 17:29| コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする