2014年05月19日

アサッテの人(諏訪哲史)

アサッテの人 (講談社文庫)
アサッテの人 (講談社文庫)

読むキッカケは、twitterで、私が精神的に疲れたときに奇声を発するという話をした時に
「ポンパッ! というのもいい」
と言われ、詳しく聞いたら小説に出てくる言葉と教えてもらったこと。
以下、自分の話と小説の感想が入り混じっているので適当に読んでください。

まず、私自身に軽い吃音があって、昔からの悩みのひとつなのである。
吃音自体は程度も軽いし、誰かに笑われたことも無く、悩みなんておこがましいかもしれない。
でも吃音の話は難しくて、程度の軽さ、重さ、本人の悩みの大きさ、対処法、治し方、ほとんどが人それぞれすぎて、自分に当てはめて他人の吃音のことを考えるのはよくないと思ってる。

その前提でこの小説を読んだら、私にはちょっと変わった感動があったのだ。

小説の中で、主人公の青年は、旅に出てしまった叔父のことを語る。
思い出の中の叔父の姿を。
叔父が残していった日記の内容を。
すでに亡くなった、叔父の妻から聞き取った内容を自身で「小説に再構築しようとしていた」時の文章を。
これらを使って叔父というひとりの人間が形作られていく。

吃音に言及した部分抜きでは、ぼんやりと叔父の姿が見えたり、細部だけが掘り込まれてくっきりしたのに完成しない叔父の姿を読者として楽しむような小説だったという感想。
実際のところ、現実世界でもひとりの人間の情報なんてこんなものなのに、自分の目で見たものは自分の脳内で補間されて、完璧にくっきり見えているような気持ちになりすぎてるんじゃないか?

書評で「叔父のことが結局まったくわからない、妻の朋子の死因が語られていない」など、情報の足りなさを指摘して、小説の評価を落としているような人は、普段からいろいろなものを「わかった気になっている」のではないか。もちろん小説には説明されなくては見えないものもあるから、情報がぬけていることで破綻してしまう場合は批判されるだろう。ただ、「アサッテの人」に、叔父が結局最後はどうなったのか、妻は何で死んだのかという情報は無くても大きな問題には感じない。(事故で突然、とだけ明かされている。コレで十分じゃないかな)


さて、自分と吃音と奇声の話。
「アサッテの人」の中で「ポンパ」という奇声が登場して、(たぶん小説として誇張した部分で)動きとともに周囲の人間を驚かせて戸惑わせているのだけど、読者にもこの行動は変わってるととらえられているようだ。
私は、「え! 自分と同じような人が出てきた?」と思ってしまった。
私の場合は叔父と違って、「アサッテ」を目指して奇声を発しているわけではないのでちょっと違うのだけど
(ただし、アサッテのために意味のない音の羅列を発していると思っているのは、叔父自身でなく、主人公の青年が読み取ったもののようだ)、
音だけで意味をもつよーなもたないよーな言葉を実際に発しているのだ。

ただし、私の奇声を聞かせる相手はたった一人だけ、そして私のばあいその一人は、その奇声に寄り添ってくれている。「叔父の妻の朋子」も最初は戸惑いつつ、分析してみたり、たまには一緒に発声してみたり、違いを指摘されればすりあわせてみたり、奇声に寄り添っていく雰囲気を感じ取れる。

私がそういう、音の遊びみたいな単語をくちにするときは、
・伝えたい気持ちが言葉にできず、その苛立ちが吃音に変換しそうなときの逃げ
・もやっとした不安や恐ろしいものが、言葉というカタチに収まらないために大きく感じるときに、霧散させるための意味を持たない音の破裂
・気分がいいときの、鼻歌のようなもの(これが自分の苦手な発音の音であってはならないのだ!)

ここまで自己分析していた自分の奇声と、「アサッテの人」の叔父の分析が結構重なってくる。
「あっ! これはもしかして、私の伝えたくて言葉にできなかった気持ちを、書いてくれているものなんじゃないか?」
同じ境遇の人への感情移入なんてものではなく、実体験のもやもやを、体験してない人へ解説できるものかという期待が大きくなる。


……ただし、ネットで書評を見た感じでは、結局伝わってないのかなあと落胆。
「わけがわからない」
「叔父はちょっと変わった人ではなく、精神病ではないか」
って言われてるのを見るとなぁ〜、ひとごとなのにシュンとしてしまうのだ。
吃音まで行かなくても、せめて「自分の気持ちを伝えられない」という体験を重ねてる人じゃないと実感がないのかもなぁ。


以上、思いつくままに書きなぐってしまった。感想ではない!
posted by 藤村阿智 at 11:49| 小説・エッセイなど | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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