2017年08月28日

御嶽山噴火 生還者の証言(小川さゆり)

御嶽山噴火 生還者の証言 あれから2年、伝え繋ぐ共生への試み (ヤマケイ新書)



読了。
2014年9月27日の御嶽山噴火の日、登山をしていた登山ガイドの方が書いた本。
いろいろな葛藤の中、2年たって体験を残したい、噴火を風化させたくないという思いで書かれている。

その日自分がみたもの、体験したこと、その後のことが書かれていて、
今までにも記事やSNSで実際にその場にいた人の話は読んでいるけど、また一つ体験談を読めて噴火の怖さが身近になってくる。著者の小川さんだけでなく、その日に他の箇所にいた登山者の体験も掲載されているので、決して一人だけがみたあの日のあの山というわけではないところがいい。

上のリンク先、amazonレビューでは「わたしもあの日いた。★5つ」の人と「わたしもあの日いた。★1つ」と同じ場所にいた人の中でもきっぱり分かれている。
著者は山岳ガイド(御嶽にはガイドでなくプライベートで、下見のため登っていた)として、今後活火山で登山中に噴火した場合、どうすれば少しでも対処できるのか、これから噴火による死傷者が出ないようにするにはどうすると良いかを考えて書いている。
★1つの方は、「あれは運でしかない、生きる技術なんてない。共感できない」というご意見。
私も、読んでいて「かなりの割合で運に左右されそうだ」と思った。
でも「かなりの割合」であって、ごくごく少しだけど、運だけじゃない、自分で対処できる技術と言うか考え方があるような気もする。
(著者はそのことを書くにあたって、他の登山者の気持ちを考え慎重な表現を心がけていると読み取れる。)

「あの場所にいて、運よく噴石や風向き・近くの地形や小屋などの条件がいいほうにそろった時」
それを活用できるか?気づいて行動できるか?というのは、知っている・心構えがある状態だとだいぶ変わってくるんじゃないか。
噴火して、噴石が降ってくるからまず身を隠す・頭を守るということを知っているのと知っていないのだと行動が変わると思う。
小屋の位置や大きな岩を確認して、もし噴火したらあそこに隠れることができるな。と常に考えるのも行動に影響するだろうし。
雷や吹雪でも、「あそこに避難小屋がある」と言うのを知っていたら逃げ込んだりできる……と言うのを、噴火と言うどうにもならない災害にあった時にも少しは応用できるんじゃないか。

噴火当日、なんとか逃げて下山して、マスコミへの対応をした結果、伝わり方がまずくて非難された話なども、もしそういう災害に会った時に体験を話すならどうしたほうがいいのか考えさせられる。
「真意から歪んで伝わる」という体験があったせいか、この本の中盤は同じことが違う表現で繰り返されて、ちょっと読みづらく感じる。
ご本人が監修しつつ、ほかの人が聞き書きでまとめたほうが読みやすくなったかもしれない。
「ここを飛ばせば〜」と書こうと思ったけど、飛ばしちゃうのもなあ……三章がもう少しすっきりしてたら。大事なことなんですけど、読んでてぐるぐるしてしまう。


著者は、もう活火山には登りたくない。と書いている。
人気のある富士山だって活火山で、いつ噴火が起きてもおかしくない。
御嶽山の噴火はたくさんの人がなくなったけど、噴火としては小規模なものらしい。
人気のある山、とてもいい季節、いい天気、一番人が多い時間帯……という条件が重なりすぎて大災害になったとは言え、ほかの活火山だってどんな条件の時に噴火するかはわからないのだからね。
活火山はいつでも噴火しておかしくないと思っていたほうがいいですね。


※私は電子版で購入したけど、紙本のほうが、巻頭の図や写真を見ながら本文を読めていいんじゃないか。
電子でもできないことないけど、あとで気づいてもちょっと面倒だから……
ラベル:登山 遭難
posted by 藤村阿智 at 11:25| 小説・エッセイなど | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月29日

長野県警 レスキュー最前線

長野県警 レスキュー最前線



遭難関連の本を結構読んでいる。

上記はそんな中で購入した本。

長野県は山がたくさんあって、百名山も集中しているし、登山者も多いから、遭難事故も多くなってしまう。
救助に当たってる人は大変だ。

救助隊の中でも、長野県警の救助隊OB・OGや現役隊員まで、現場を見てきた人の作文が集められた本。
文集みたいでなんか不思議だ。
でも、それだけいろんな隊員から見た登山と救助が一度に読めて面白い。
救助する側の気持ちや、遭難の事例、登山者にお願いしたいことなど。
厳しい文章もあるけど、まあそれはそうだよね〜と納得。
遭難した人や家族とのやり取りが救助隊目線で書かれているのもほかの遭難本と違うところ。


志願して隊員になった人もいれば、任命されて苦労しながら救助する人もいたり。
他県からも山が好きで救助隊になりたいと長野県警に入る人がいるんだなあ。
そういうのも特殊な状況かもしれない。

女性隊員も何人か手記を寄せているけど、みんながみんな
女性だから男性のようにできないことを悩んでいて、訓練や救助は男性と同じように求められているのに、
女性ならではの気遣いなんかも求められていたり心がけていたりで大変。
女性ならではの気遣いなんてものまで求められるのは大変じゃないか……
うーん。

なんにせよ、いろんな人の目線で遭難・山岳救助が書かれているのはいいですね。
小諸の懐古園でヘリコプター「やまびこ」が展示されているのを見たこともあるので、やまびこの話はグッときました。
posted by 藤村阿智 at 10:35| 小説・エッセイなど | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月24日

【2015の記録】青空文庫で小説を100本読みたい【感想】

2015年の目標として、
青空文庫を100本読む」と言うのを掲げました。
毎年本に関しては「300冊読む」とか言っていて、300冊ぐらい読んでるんですけど、
青空文庫は短編もあったりと「○冊」に含めるのが難しい。
だから、今までも読んでるんですけど、ノーカウントだったのです。読書量に入れてなかった。

ということで、今年は再読含めて、青空文庫で小説を100本ぐらい読みたいと。
カウントすれば読む気も出てきそうだし。あらすじや感想は書いたり書かなかったり……ムリのないメモにしたい。


【1】株式仲介店店員(コナン・ドイル)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000009/card43497.html
赤髪連盟(赤髪同盟、赤毛連盟など)と似た話で、私の好きな「楽で儲かるけど意味のわからない仕事をさせられる」話。好きなんですよね……実生活でも、「なんだこの仕事は」って思ったときに「ホームズのアレみたい」って」つぶやいてます。

【2】藪の中(芥川龍之介)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/card179.html
とある事件についていろんな人の証言を聞く。そこから見えてくる事件の本質とは。

【3】あばばばば(芥川龍之介)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/card14.html
いつも買いものに行く店には無愛想なオヤジしか居なかったのに、いつのまにか女性の売り子が。別に好きでも何でもないしドジだからからかってやってただけなのに、ある日を境に姿を見なくなってしまって……

【4】走れメロス(太宰治)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/card1567.html
有名な話。中学生の頃にももちろん読んだし(私が書いたパロディ小説が学級新聞に載ったよ)
あらすじは知ってたけど、改めて読むと……細かいところに突っ込みを入れてしまう。
暴君である王様が最後に友情に感心してたけど、最初に親族など近い人間を含む大量の人間を処刑してるからね、この王様は。あとメロスも、余裕だと思ってゆっくりしてたら橋が流されてて濁流に飛び込むとか、犬を蹴っ飛ばすとか、もういろいろダメそうな感じ。

【5】予の描かんと欲する作品(夏目漱石)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/card2678.html
これはいいですね。小説書いてる人とかは一回読んで見るといいと思います、短い話だし。

【6】山地の稜(宮沢賢治)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/card4469.html
これの前に読んでた文章が全然頭に入ってこなくて困っちゃったので、違うのを読もうと思ってたまたまクリックしたのがこの山地の稜。
余計に混乱したというか、さっぱり文章として理解できず、文字の羅列にしか思えなくて、余計に混乱。とうとう文章が読めなくなったのかと心配になったけど、人に読んでみてもらったら「わかんなくても普通だと思う」と言われたのでよかった……(笑)
宮沢賢治らしい雰囲気と空気はあるんだけど、まあ、残念ながらわかんないです……私、宮沢賢治合わないのかもな。

【7】階段(海野十三)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card1224.html
面白かった。まじめな研究員である主人公が、他の調査の手伝いで信濃町の駅を利用する人間の数を数える。女性が苦手なのに、女性を数える担当になり、階段の端からなんとか足だけ見てやり過ごそうとするが、美しい脚に心を奪われてしまって……
とにかく脚の描写!しつこいぐらい、変態的に脚の美しさが語られる。足フェチの話で終わるかと思えば、これまた特徴的な螺旋階段のある図書室で殺人事件が起こる。主人公は自分への疑いを晴らそうと推理を始める。そしてその先に見つけた、自分に取り付いていたものとは?
そんなに長くないのに、ぎゅっと詰まって急展開する内容で面白い!オススメ

【8】日本山岳景の特色(小島 烏水 )
http://www.aozora.gr.jp/cards/000027/card644.html
登山家の一面もある小島氏(いろんなことをされてる人らしく……)による、日本の山岳風景についての話。
海外の名峰との比較もある。
山頂へ登山するというよりは、遠くから眺めたときの山のすばらしさが中心かな?
「山岳風景」だもんね。富士山の裾野の広がりのよさとか、火山があることによる山そのもののカタチのよさや湖など環境のよさも。山が風景にある土地で育った私には、山を誉める話は読んでてうれしいもの。
句読点の使い方が独特で(ひとつの文章が長い……)読みすすめるのに時間がかかってしまった。

【9】(梶井基次郎)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000074/card423.html
梶井基次郎、といったら「檸檬」が浮かんでくるのですが、檸檬を読もうと思って作品一覧を眺めていたら出てきたのがこの作品。ちょっとキヤク的にNGなタイトルかもしれないのでタイトルは書かない。
リンク先では別に、普通に見られます。普通の単語ですがアカウントが停止になるといううわさでして(笑)
猫が深夜に抱き合って、何をするでもなく抱擁しているのを眺める話と、河鹿がまさに生命のいとなみを行うのをみて命の輝きを感じるという話。短いけどどちらもなかなかよかった。オススメです

【10】醜い家鴨の子(アンデルセン ハンス・クリスチャン )
http://www.aozora.gr.jp/cards/000019/card42386.html
みにくいアヒルの子、もちろん昔からストーリーは知ってますが、どういう風にかかれたお話なのかは知らなかった。なので読んでみた。
まあ、流れは記憶のとおりで、特に「ええええ本当はこんなふうなんだ?」って驚くこともなく、
アヒルの子どもたちの中にすごく醜いヒナが混ざってた。
醜さのあまりみんなにいじめられる。
本当は白鳥だった。
ってハナシなんですが、容赦ないですね……結局見た目なんですね重要なのは。
醜いアヒルだったときの、自己嫌悪とか、諦観とか、周りのいじめっぷりは本当にひどいね。
いじめられる理由が「醜い」だからね。本人も醜いから仕方ないな〜って感じで。
白鳥に憧れてたけど、冬を越してみたら自分も白鳥だった上に、白鳥の中でも美しいほうだったので
白鳥にも人間にもモテるようになった。幸せ。って事なんだもん……

【11】赤いくつ(アンデルセン ハンス・クリスチャン )
http://www.aozora.gr.jp/cards/000019/card42378.html
歌の赤いくつとなんか関係があるかと思ってましたが違う話でした。
少女は貧しかったけど赤いくつをもらう。そのおかげでいいことがあるが、
安っぽいくつだということで捨てられてしまう。
赤いくつに魅せられた少女は次も赤いくつを履くが、呪われていて、履かずにおれないし履くと踊ってしまうし脱げないし……
赤いくつを履いて踊ってたせいで生活もままならないし、恩人の死に目にも会えなくて、ほとほとイヤになって首を切る職業の人に頼んで足ごと赤いくつを切り離してもらって一件落着……?
足のないまま家政婦として働き出して、懸命に働いて周りにも慕われるようになった少女(だった女性)は、ようやく寺(教会かな?)に立ち入ることができ、天使につれられて天へ召されるのでした……
って、怖いよ〜。少女になんの落ち度もないところが怖い。そういう、童話にありがちな「○○のバツで、悲しい目にあったのです」って話じゃないんだよね。でもこっちのほうがいいかな。どんな人にも悲しいことは降りかかるし、けして本人が悪いばかりじゃないんだというお話。オススメ

【12】ニャルラトホテプ(ラヴクラフト ハワード・フィリップス)
http://www.aozora.gr.jp/cards/001699/card56839.html
初めてのラヴクラフト。「ラヴクラフトとか好きそう」といわれながら読んだことがなかった。
というか名前すら知らなかったんだけど、いま興味がある。本を買ってみよう。と思いながら検索したら、
青空文庫でこちらだけ読めた。とっても短いのですぐに読めちゃう。
いいですね、ほかのも買って読んでみよう。

ラベル:青空文庫 小説
posted by 藤村阿智 at 17:22| 小説・エッセイなど | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月26日

愛しき駄文具(きだてたく)

文具仮面ブログの記事を再掲載です

買った! 読んだ!

愛しき駄文具
愛しき駄文具

発売日に発注して翌日とどく。ネット書店ありがとう。
いえ普通の街の書店も駅前の大型書店もありがとう。

届いたら想像していたより小さめの本だった。
勝手にB6サイズ以上を想像していたけど新書版だった。

中身はまさに、愛しい駄文具たちの図鑑そのもの。
きだてさんがこれまでのイベントや雑誌などで紹介し続けてきた
コレクションの中からよりすぐりの愛しい文具たちがてんこもり。
写真が大きめなのも、実際のスケールを感じながら見られていいですね。

いままでちゃんと言ってこなかったけど、きだてさんの文章が好きなんです。
私は色物文具専門サイトイロブンの結構昔からの読者で、まだお会いするよりずっと前から読んでいたんですが、
ちょうどそのころ私が文具店で働いていたこともあり、
信頼文具舗さんとイロブンさんの文章を読んで文房具を研究し、
「この人たちの文章を読んでいると、いままで知らなかった、まだ手にとってもいない文房具がとってもステキでほしいもののように思えてくる。すごい。こんな紹介を私もできたらいいな!」
とずっとあこがれていたのです(*^-^*)
ほんとに、「なにそれ!」と思いつつも商品の魅力が伝わってくるのを感じるんですよ。


個人的には、こういう写真と文字で楽しめるような本は、寝る前の読書に最適なので
枕元に置いて眠れない夜に再読しようと思います。
どこから開いても楽しめそうだし、途中で眠ってもいい文具の夢見られそうだもん。

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コレクターのお二人との対談記事も面白い。
消しゴム収集家のケシマニさんがおっしゃる、「消せる素材じゃないと興味が持てない、コレクションなのに使いたい(消したい)衝動がある」って話は、すごくわかります。えーと、つまり「収集したくなる消しゴムは消しゴムとして機能するもの」ということだと思うんですが、同じような気持ちになったことがあります。

私も変な電卓を集めているわけですが、これはちょっと違うんです。

★使える電卓だけど見た目や機能が変 → 便利なのか不便なのかわかんない、なんでこれを作ったのか、
 そういう疑問が所有欲をそそる

★壊れちゃってもう動かない、変な電卓 → 動いてた、作られたことに価値があるので問題ない
 (いや、動いていれば一番いいんですけどね)

★もともと動かない、電卓の形や柄がついただけのアイテム → だれがこれを喜ぶと思ったのかと
 考えると私が喜んでしまう


って感じで、結構「動かない電卓」ってのにも興味はあるわけですよ。

しかし、機能がもともと無いものだととたんに魅力がなくなってしまうものがある。
マグネット、消しゴムもおなじだと思う。これらはもともとの自由度が高いのだ。
たとえば、モノ消しゴムと同じ形の、固いプラスチックのフィギュアを作ったとしよう。
これはモノというブランドや形状のパロディということで、コレクションアイテムになりうる。
じゃあ……たとえば四角くて大きさがちょうどいいからと言ってマージャンパイを集めたくなるだろうか。
さらに関係ない、さわり心地がいいけど消せないゴム製の富士山の置物が欲しくなるだろうか。
私だったらならない!(欲しくはなるかもしれないけどコレクションの仲間じゃない)

15年前にテレカ・プリペイドカードを集めていたんですよ。今も当時のコレクションは持ったままだし、
たまには増やしてる。
このジャンルの人なら、機能が重要なのはびしっとわかってくれると思う。
500円の価値がある金券だからではない。
テレカ、プリペイドカードとして使うことを目的として作られたカードだから集めているのだ。
コレクターの中には使用済みでもかまわず集めている人もいる。
でも、そのコレクターが「もう金券として価値のない、グラビアアイドルの写真が印刷された使用済みプリペイドカード」に1000円払ったとして、「最初からプリペイド機能のない、プラスチックにグラビアアイドルの写真が印刷されたカード」を購入することはないのであるよ。
(まったく無いわけじゃないけど、やはりテレカコレクションではない)

いまや、テレホンカードが使えるシーンもなくなってきたし、私が持ってる未使用のオレンジカード(そろそろ使えなくなってきた)やイオカード、Jスルーカードなんかは金券としての価値も無いけど、金券の機能を持たされた! 役割のあるカード! それがあってこそ、表面に印刷された柄が重要になってくるのです!

話が長くなりましたが、つまり消しゴムもマグネットも、それらの機能が最初から与えられてない場合にコレクション対象にならないのは、機能を持った、働くアイテムとしてのバリエーションを楽しんでるからじゃないでしょうか。
働くアイテムは働かせてあげたい。電卓だって無駄な計算をさせたりするし、きっとマグネットも金属の板に貼ったり、くっついてる感を感じながらはがしたりするのが楽しいはず。
消しゴムは消したらミントがグッドぐらいに下っちゃうから(コレクションの状態を表す用語wミントは「キズなし、新品同様」みたいな状態でグッドは「中古ですけど良いです」ぐらい)働かせたいけど使用済みと未使用に大きな差が出ちゃう場合はつらそうですね。働いてるところ見たいのにね。


すっごいずれて、本の感想に乗っかって違う話をしてしまいましたが
とにかく変な文房具たちは眺めてるだけでも楽しいです。
誰かがこれらに、便利な機能をつけて、働くアイテムにして売っているんだよ。買う人と使う人がいるんだよ。変な文房具の魅力もそこだと思うのです。
posted by 藤村阿智 at 10:12| 小説・エッセイなど | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月19日

アサッテの人(諏訪哲史)

アサッテの人 (講談社文庫)
アサッテの人 (講談社文庫)

読むキッカケは、twitterで、私が精神的に疲れたときに奇声を発するという話をした時に
「ポンパッ! というのもいい」
と言われ、詳しく聞いたら小説に出てくる言葉と教えてもらったこと。
以下、自分の話と小説の感想が入り混じっているので適当に読んでください。

まず、私自身に軽い吃音があって、昔からの悩みのひとつなのである。
吃音自体は程度も軽いし、誰かに笑われたことも無く、悩みなんておこがましいかもしれない。
でも吃音の話は難しくて、程度の軽さ、重さ、本人の悩みの大きさ、対処法、治し方、ほとんどが人それぞれすぎて、自分に当てはめて他人の吃音のことを考えるのはよくないと思ってる。

その前提でこの小説を読んだら、私にはちょっと変わった感動があったのだ。

小説の中で、主人公の青年は、旅に出てしまった叔父のことを語る。
思い出の中の叔父の姿を。
叔父が残していった日記の内容を。
すでに亡くなった、叔父の妻から聞き取った内容を自身で「小説に再構築しようとしていた」時の文章を。
これらを使って叔父というひとりの人間が形作られていく。

吃音に言及した部分抜きでは、ぼんやりと叔父の姿が見えたり、細部だけが掘り込まれてくっきりしたのに完成しない叔父の姿を読者として楽しむような小説だったという感想。
実際のところ、現実世界でもひとりの人間の情報なんてこんなものなのに、自分の目で見たものは自分の脳内で補間されて、完璧にくっきり見えているような気持ちになりすぎてるんじゃないか?

書評で「叔父のことが結局まったくわからない、妻の朋子の死因が語られていない」など、情報の足りなさを指摘して、小説の評価を落としているような人は、普段からいろいろなものを「わかった気になっている」のではないか。もちろん小説には説明されなくては見えないものもあるから、情報がぬけていることで破綻してしまう場合は批判されるだろう。ただ、「アサッテの人」に、叔父が結局最後はどうなったのか、妻は何で死んだのかという情報は無くても大きな問題には感じない。(事故で突然、とだけ明かされている。コレで十分じゃないかな)


さて、自分と吃音と奇声の話。
「アサッテの人」の中で「ポンパ」という奇声が登場して、(たぶん小説として誇張した部分で)動きとともに周囲の人間を驚かせて戸惑わせているのだけど、読者にもこの行動は変わってるととらえられているようだ。
私は、「え! 自分と同じような人が出てきた?」と思ってしまった。
私の場合は叔父と違って、「アサッテ」を目指して奇声を発しているわけではないのでちょっと違うのだけど
(ただし、アサッテのために意味のない音の羅列を発していると思っているのは、叔父自身でなく、主人公の青年が読み取ったもののようだ)、
音だけで意味をもつよーなもたないよーな言葉を実際に発しているのだ。

ただし、私の奇声を聞かせる相手はたった一人だけ、そして私のばあいその一人は、その奇声に寄り添ってくれている。「叔父の妻の朋子」も最初は戸惑いつつ、分析してみたり、たまには一緒に発声してみたり、違いを指摘されればすりあわせてみたり、奇声に寄り添っていく雰囲気を感じ取れる。

私がそういう、音の遊びみたいな単語をくちにするときは、
・伝えたい気持ちが言葉にできず、その苛立ちが吃音に変換しそうなときの逃げ
・もやっとした不安や恐ろしいものが、言葉というカタチに収まらないために大きく感じるときに、霧散させるための意味を持たない音の破裂
・気分がいいときの、鼻歌のようなもの(これが自分の苦手な発音の音であってはならないのだ!)

ここまで自己分析していた自分の奇声と、「アサッテの人」の叔父の分析が結構重なってくる。
「あっ! これはもしかして、私の伝えたくて言葉にできなかった気持ちを、書いてくれているものなんじゃないか?」
同じ境遇の人への感情移入なんてものではなく、実体験のもやもやを、体験してない人へ解説できるものかという期待が大きくなる。


……ただし、ネットで書評を見た感じでは、結局伝わってないのかなあと落胆。
「わけがわからない」
「叔父はちょっと変わった人ではなく、精神病ではないか」
って言われてるのを見るとなぁ〜、ひとごとなのにシュンとしてしまうのだ。
吃音まで行かなくても、せめて「自分の気持ちを伝えられない」という体験を重ねてる人じゃないと実感がないのかもなぁ。


以上、思いつくままに書きなぐってしまった。感想ではない!
posted by 藤村阿智 at 11:49| 小説・エッセイなど | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月11日

隣の家の少女

隣の家の少女 (扶桑社ミステリー)
隣の家の少女 (扶桑社ミステリー)

オススメはしない。虐待の内容がひどいから、そういうのがだめな人にはオススメしない。
私自身は、読んでよかったと思う。楽しめたとか面白かったとか書くのはさすがに躊躇してしまう。
以下ネタばれありで。

主人公のデイヴィッドは小川でザリガニをとっていたとき、近所では見かけない、少し年上の魅力的な美少女に会う。
話をきけば、交通事故で両親を亡くしたあと、遠縁を頼って引っ越してきたとのこと。しかもデイヴィッドの隣の家に!

デイヴィッドはちょっと悪がき寄りの、でも普通の少年で、
女性には興味津々で性についても興味があるし、ちょっと嫌なやつだと思いつつも仲良しの友人もたくさんいて、閉鎖的な田舎の暮らしを何も問題なく暮らしているように見える。

隣に引っ越してきた姉妹の姉のほう、メグに恋心を抱き始めてもっと仲良くなりたいと思うのに、
メグのようすがなんだか変になっていく……


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最後はメグは死んでしまう(なぶり殺されてしまう)のはもう、最初からわかっていた。
それでもその過程はつらくて、痛みが伝わってくるのを遮断しながら読み進めるしかない。
この物語を終わらせるためにね。

虐待の中心は、隣のチャンドラー家の母親、ルース・チャンドラー。悪がきの3人息子を、いまは女手ひとつで育てている。ルースはデイヴィッドや近所の子どもたちにとっては友人だった。
悪いことも「誰にも言うんじゃないよ」と許してくれるようなところがあって、子どもたちは近所の話がわかるおばさんになついているようだ。子どもにとって許してくれる年長者は頼れる存在だ。自分の親よりも気軽で、好きになるのもわかる。
(他の人の書評で「ルースはガキ大将だ」という表現があって、なるほどなと思った)

ルースがどうしてメグを虐待するのかは、結局最後までわからない。メグ自身も、「なんで? どうしてなの?」と最後まで問い続ける。多分ルースにもわからないんだろう。

メグのことをぶさいく、太ってるとなじるルース。メグも「そうなのかな?」って少し戸惑う。

だれでも、欠点に気づけてないかもしれないという不安から、ズバッと指摘されると
「私が気づいていないだけで、そうなのかもしれない」と不安になって、罪悪感を覚えるだろう。
その客観的でない意見を持ち続けると、周りの意見や見えるものがずれてきてしまう。

この話は、そういうズレていく話なのだ。

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傍観者である、主人公のデイヴィッドですら、
 メグとわたしたちの区別には正当な理由があるのではないだろうか、と疑った。
 正当な理由があると納得したかったのだ。
(193P)
と、暴力の理由を探して「メグは虐待されるだけの理由があって、僕とはちがう」と思いたがっているし、
ルースも暴力を振るうときは必ず「この女は淫乱で不潔で、醜いから今のうちに治す」と理由のようなことを言う。周りは、誰も自分の判断ができない子どもたちだ。「そうなのかもな?」「じゃあしょうがないかな?」と思っただろう。
暴力を正当化する言葉は手に入れてはいけないのだ。

そうかといえば、ルースはメグを虐待して地下室に閉じ込めているにも関わらず、
 「メグのほうが、この女よりずっとかわいいじゃないか。どう考えたってメグのほうが美人だよ」(197P)
などと(雑誌のモデルと比べて)褒めちぎる様子も見せる。

ルースの憎悪は、メグに対する憎しみではなく、自己嫌悪なのではないだろうか。
3人の息子を苦労しながらひとりで育てている。
華やかな娘時代も確かにあったはずなのに、失敗したように思える、自分の選択と現状。
いつからこうなったのか、どうしてこうなったのかと考えたとき、自分の「女」という性に行き当たる。
自分に起きている不満を、「女性である」ことのせいにしているように見える。
メグという思春期の美しい少女を見たとき、性の輝きと若さを感じて、自分の「女」を罰する気持ちがメグ、若い頃の自分への虐待という行動を起こすきっかけになったのではないか。多分ルース自体も、その憎悪の正体には気づいていない。メグを罵倒する言葉のすべて、誉める言葉のすべてが、もしルース自身に向けられたものだったとかんがえたら……?


小説を見る限り、メグのような思春期の若い女性はほかに見当たらないのだ。
少なくともルースの近くには。
まだ子どもで、女になっていないスーザンやデニースは虐待の対象になっていない。

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他の方の感想には、よく「デイヴィッドは何をやっているんだ、傍観者だといっているが立派に加害者だ。助けようとしなかった」というものが見受けられるし、実際作中でも警官に「(君は)助けなかった」と静かな糾弾を受けている。

でも私にはこの、デイヴィッドが誰にも言えず、なんだか「そのうち終わるんじゃ」という気持ちで言い出せずに見るだけだった気持ちのほうがよくわかる。
デイヴィッドは何度も繰り返し、僕たちは子どもだ、とつぶやくように考えている。
そう、子どもは自分の思うどおりにできないものなのだ。大人は間違えないし、失敗しない。子どもは違う。もし大人が信じてくれなかったらそこで終了だ。
12歳の少年なんて、覚悟がないと「お前も悪い」といわれることは告白できない。共犯はチクらないと決まっているかのように。罪悪感が、善行の邪魔になる。

終盤でデイヴィッドはとうとう傍観をやめて、ヒーローになってしまう。
助けられなかったけど、これはヒーローだ。
私はこの終盤で、物語から距離を感じてしまった。私だったら多分、傍観をやめられないだろう。もしかしたら自分も虐待「される」側になったかもしれないと思うけど、助けようとはできず、ただ時がすぎてなにもかも終了するのを待つだけになりそうだ。「まだ手遅れじゃない、終わってないんだから」とつぶやきながら。


物語の最後に、大人になったデイヴィッドは三度目の結婚を予定しているけど、
もうデイヴィッドはあの地下室でメグと結婚してしまったようなものなのだと思う。
本当の苦痛を分けあった、自身の片割れのような少女と。
つまり、三度目の結婚もうまくいかないんだろうな。
posted by 藤村阿智 at 01:31| 小説・エッセイなど | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月28日

ラジオのこちら側で(ピーター・バラカン)

ラジオのこちら側で (岩波新書)
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ピーター・バラカン

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先日ひょんなことからピーター・バラカンさんにお会いする機会がありまして、
ミーハーにも最新著作本の「ラジオのこちら側で」を購入して、サインをおねだりしたのです。
快く受けてくださって、この一冊は大事な本になりました。
(うちには数は多くないですが、サイン本が何冊かあります。全部、サインをいただく本人の著作を購入しています!)

本好きなのでもちろん読みますよ。
先日お会いするまではピーター・バラカンさんのことは、どういった人なのかあまり詳しくなく、ネットですぐ見られる情報ぐらいの知識しかありませんでした。

そんな程度の知識で、しかもお会いしたらすごくいい人だったため、バラカンさんに興味が出てきた私にとってはまさに一番うってつけの本。

バラカンさんはラジオDJとして活躍されており、音楽番組を数々担当した方。
ロンドンから、遠く日本までなぜやってきたのか。イギリス出身の人から見た日本の文化とは?
ラジオで音楽番組を作るということはどういうことなのか。

そういったことが、バラカンさんの目線でつづられています。
日本語のしゃべりを聞いたことのある人なら、本を読んで「まさに目の前で話をしてくれているような」気持ちで読めるでしょう。あとがきによれば、インタビューを元に構成された本のようです。

私は音楽に詳しくないので(とくに洋楽はあまり聞いていない)、本に登場する数々の曲はわからないものばかりですが、それでもラジオの裏側や苦労話、うれしい話などを楽しく読めました。音楽に詳しい人が読めば、年代別に紹介される楽曲も脳内で再生しながら楽しめるんじゃないでしょうか。
ラベル:エッセイ
posted by 藤村阿智 at 19:51| 小説・エッセイなど | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月03日

40代、職業・ロックミュージシャン(大槻ケンヂ)

40代、職業・ロックミュージシャン 大人になってもドロップアウトし続けるためにキッチリ生きる、'80年代から爆走中、彼らに学ぶ「生きざま」の知恵 (アスキー新書)
40代、職業・ロックミュージシャン 大人になってもドロップアウトし続けるためにキッチリ生きる、'80年代から爆走中、彼らに学ぶ「生きざま」の知恵 (アスキー新書)

読みました!
もうほんとにオススメ!
(週刊アスキーの連載「R40」をまとめたもののようです)

「職業、ロックミュージシャン」である人々の、40になるまでの半生と、40代からの生き様!
平均寿命からすると40歳代というのは人生の半分だ。
昔の人ならもう晩年だろう。現代はまだまだこれから!
これまでを生かすも殺すも自分しだい、40代を生きる前に読んでおきたい一冊。

もちろん私はオーケンが好きで、だからこそ買ったのですが、それ以外の音楽好きにもこの本を薦めたい。
内容はオーケンとその他ミュージシャンたちの対談形式。読みやすいから、普段本を読まないって人も敬遠せずに読んだらいいと思う。
オーケン・筋肉少女帯ファンには、おなじみのアーティストの人たちが揃ってるので、そこも見所。ファンならまさにオススメ。

ミュージシャンの中でも、ロックというジャンルの人はいい意味でも悪い意味でも適当だったり場当たりだったり、安定していなかったりすると思うけど、40歳以上という「いい大人ロッカー」たちは、今までの経験を生かしたり、達観したり、健康に気を使ったり、若いころと生き方を変えたり変えなかったりしている!
つまりあらゆることにタリタリしている!ロッカーも人の数だけ人生がある!

うまくいかなくて悩んでいる人には、
「あ、うまくいかなくてもなんとかなるんだ」と慰めをくれるし、
まだまだがんばりたい人には
「40歳なんて若くて、いろいろやり方があってがんばれるんだ」とちからをくれるし、

自分に悩みなんかなくても「ええ!あのひとミュージシャンの合間にそんなバイトやってるの」とか
「ライブやってないときは実家の手伝いを!?」「そんな趣味が!?」「40歳にして筋肉・肉体改造に目覚めるとは!」「年をとっても音楽を続けるための健康法!」とか楽しい読み物として、たまには噴出しつつ読めること間違いなし。



デビューしたてはテレビによく出てたけど、最近出てないよね〜なんてファン以外の人たちは言うけど、実はずっと活動をつづけているミュージシャンのいかに多いことか。音楽以外の生活も、もちろん音楽も、がんばってるからオトナなんだよねえ。
とにかく私にとって、いくつもの幸せをくれた一冊だった!
posted by 藤村阿智 at 14:08| 小説・エッセイなど | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月18日

累犯障害者(山本譲司)

累犯障害者 (新潮文庫)
累犯障害者 (新潮文庫)

これは良書でした。著者は刑務所に服役したことがあって、その際に数々の「罪を犯して刑務所に入っている知的障害者」と出会い、 その人たちが明らかに障害のため社会に交われないというのに、福祉や教育・支援も無く犯罪を犯したとして服役していることに疑問を持つ。
出所後に取材や裁判の傍聴を繰り返し、犯罪・裁判と障害者のかかわりをこの本にまとめた。
身体障害者はほとんど出てこなくて、生まれつきか幼い頃に聴力をなくした人は触れられているけど、あとはほとんど知的障害の人。
そういえば確かに、障害者手帳を交付されない程度の知的障害の人でも、よくルールがわからなくて罪を犯したり、奇異に見えたことで 結果的に罪に問われたりと言うことはありそうだ。
本書でも触れられているような、親子・家族ぐるみで知的障害があったりすると、そもそも誰かに相談するとか、 社会で生きていけるような支援や教育と言うのが受けられないこともあるだろうね。

書かれている内容がすべてではないだろうけど、いままで考えたことも無かった事柄がまだまだあるということに考えがいたった。
その本で得た案件を元に、今後は新しい想像力を駆使していこうと思う。

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【類似の本の感想】
誰が彼らを止められるのか ルポ・累犯障害者たち (朝日新聞デジタルSELECT)
http://honyonda.seesaa.net/article/417604572.html
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2007年04月23日

神菜、頭をよくしてあげよう(大槻ケンヂ)

神菜、頭をよくしてあげよう
神菜、頭をよくしてあげよう


オーケン先生の2003年に発行されたエッセイの文庫判。
→単行本版はこちら神菜、頭をよくしてあげよう

いつもどおり、のほほんと気軽に何処からでも何度でも読めるエッセイだよう。

私はもう、もちろんオーケン先生のことが大好きなので、どんな事が書いてあっても「オーケンフィルター」を通して見ているので、「ンモウ」「アハン」など言いながらほくほくと読めてしまいます。

そのときそのときの時事ネタもあり、「今だからいえること」もあり、ロックミュージシャンであり小説家であるオーケン先生の日々日常を垣間見れるのが面白いのです。

特に今回、ファンでなくても参考になりそうなのが、
芸能人や有名人とばったり出会ったときの対応について書かれた文章。
有名人として、こんな一般人はいやだ!という例があげられていて、
「あるある〜」と同時に、自分もばったり出会っちゃったらやりかねない失礼な態度・言動の数々。

すっっっごく好きな(現在進行形)有名人の人にだったら、きっと思いやりももてるし、好きなあまりの行動だって事は伝わると思うんだけど、やっぱり難しいのは「ものすごく好きなわけじゃないけど会うとなんだか嬉しい有名人」とか、「昔すごく好きだったなあと思い出す有名人」などですね。そういう人には失礼な言動をしてしまう可能性が大なので、皆さんもこのエッセイで嫌がられる言動を確認してみましょう。


中身は数ページのエッセイを集めたものですので、本当に何処からでも読めますよ。電車の中などで最高。たった15分の乗車時間でも、パッと読み出せてさくっと読めるのです。だから買うのです。


タイトルは「レティクル座妄想」というアルバムにも収録された筋肉少女帯の人気曲、「香菜、頭をよくしてあげよう」から来ているのだけど、このように曲名と本の名前を一緒にしてしまうと、残念ながらネットでの検索的には良くないよね。だって本を探してるときは曲名が邪魔しちゃうし、逆もしかり。
今回は字が少しかえてあるから区別はつくけど。

本屋さんでざーーっと背表紙を眺めて買うときは、曲と同じタイトルだと、ファンの人や曲を聞いたことのある人に「オッ」と気づいてもらえそうでいいかもしれない。タイトルは難しいなぁ。

「香菜、頭をよくしてあげよう」は最近でた「筋少ベスト 大公式」にも収録されていますよ。

レティクル座妄想
レティクル座妄想


オールタイム・ベストアルバム 筋肉少女帯 復活究極ベスト“大公式”
オールタイム・ベストアルバム 筋肉少女帯 復活究極ベスト“大公式”

posted by 藤村阿智 at 21:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説・エッセイなど | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月03日

じゅんの恩返し(みうらじゅん)

今年も激的な出会いがなかった……とか言いつつ今年やったことを振り返ってみたら、かなり劇的にがんばったなぁと思い直す。
ただ、それらが実ってないんだよね(笑)収穫は無しだよ。種はたくさんまいて、刈り取りにも行ったけど実ってない……というような状態。
たくさんタネをまいたらどれか芽が出て、いつのまにか大きくなるだろうと信じて頑張っているのですが、もしかすると最初から偽者の種なのかもしれない。
ああっなかなか哲学的じゃない!?

もう、そういう風に落ち込んだり「なにやってんだろ……?」って気持ちになった時は
じゅんの恩返し
みうら じゅん著
ソフトバンククリエイティブ (2006.11)
通常24時間以内に発送します。

このみうらじゅんの本を読むのだ!こないだ出たばかりの本だけど、ほぼ日でもかなり楽しみにしてた連載だったので、迷わず購入。即購入。

これは私が尊敬してやまない、みうらじゅん氏がいままでお世話になった物を語ることで恩返ししようという企画。みうらじゅんを作り上げた素材みたいなものをあつめた本だね。
この本を読むと、みうらじゅん氏はおのれの「好きだ」とか「いいんじゃないか」を貫いた結果、どんどんいろんなものが集まってきたという好例を見ることが出来ると思うね。
マジで忍者タイプ。低い樹を毎日飛び越しているうちに、高く飛べるようになってたというあの修行方法を毎日楽しみながら・苦しみながら続けている人だ。

そして、物事すべての「いいところ」「おもしろいところ」を見つけようと努力している人だ。私はみうらじゅん氏になりたい。なりたいったらなりたい。


で、そのみうらじゅん氏にも、この本を読めば分かるのだけれどやはり「こんな人になりたい」って言う目標というか、憧れの人がたくさんいたのだ。そして近づくために努力や真似をした結果、結局自分自身という新しい生き物になってしまったんだね。すごい事です。
posted by 藤村阿智 at 13:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説・エッセイなど | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月17日

虫づくし(別役 実)

虫づくし (ハヤカワ文庫NF)
虫づくし (ハヤカワ文庫NF)



虫が好きな私にとってはタイトルからしてそそる本。
しかし、虫の本なら何でもいいというほど活字好きではないので、本屋でパラパラとめくってみる。
序説の「虫は虫である」という文章で、「虫とはにょろつくものである」から始まる多数の「虫とはなにか!?」説を読み進めていくうちに、これはおもしろそうだと購入してしまった。

そしてその序説の部分で私はまんまとだまされたわけだ。(笑)
リアルに描かれた登場人物と、少しミステリーな体験談風の文章に、すっかりノンフィクションだと思ってしまったんだよね。

最初の水虫の章でもまだあまり疑わなかった。東北地方の餓鬼が舐めとれば水虫が治るなんていう説にも関わらずだ。
「たむしによる自殺」なんていうのも「ヘエー」とか思いながら読んでしまった。
この辺は虫っていうか……目に見えないし、自分がたかられた事も無いから実感できなかったのかも(笑)
「プラスチックを食べるゴキブリを開発」というところでようやく
これは……もしかしたらジョークなんじゃ
と気がついた!(笑)

遅すぎる!(笑)
気付いてからはどんどん出てくる奇妙な虫とソレを取り巻く人間の様子がおかしくて、ずっと笑いっぱなし。
いかにも権威のありそうな架空の学者や雑誌名、本当は無いであろうソースの示し方などがリアルすぎて「やっぱり本当なのかも?」って幾度か疑ったよ。

ナメクジにも毛が生えましたというCMを流したらヒワイだといわれたという話とか、淫靡で面白い。卑猥だって言われりゃ卑猥だけど、卑猥だって気付かなきゃただの毛が生えたナメクジなんであって、みんな「卑猥だ」って気がついても「何処が?」って説明するのにためらっちゃう(で警察がわいせつ物として取り締まりたいけど躊躇してるんだよね)所とか、目に見えるようで楽しい。

哲学的な物も中にはあって、
「ゲジゲジはゲジゲジを食べるので、ゲジゲジだけで完結する」
「なめくじは病気のかたつむりだ」
という話は考えさせられるなぁ。

一章ずつが短いので、少しずつ読んでも小噺のように楽しめる。
電車の中で読んだら笑えてたまらなかったけど、電車の中でも楽しく読めます。
ただし挿絵が虫だったり、見ようによってはヒワイ(笑)なので周りに迷惑をかけないように。
ラベル:小説
posted by 藤村阿智 at 09:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説・エッセイなど | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月25日

オーケンのめくるめく脱力旅の世界 大槻ケンヂ



オーケンのめくるめく脱力旅の世界 大槻ケンヂ

 大槻ケンヂが好きだ。筋肉少女帯が好きだ。
どれぐらい好きかって言えば、全部聴いちゃうのがもったいなくて、CDを全部買えてないほど好きだ(ダメかなぁ)。
 で、エッセイの類で文庫化してる作品はかなり買っている。こちらももったいないので、少しずつ読んでいる。結構いいペースで発刊されているので、まだまだ読んでない作品や新作があるんだけどね。
 単行本で購入して売上に貢献したいのは山々ですが、本棚にたっぷりになってしまうところがハードカバー単行本の困るところ。本好きは、ハードカバーで長持ちするのを買うんだよね、本当は。

 で、数々のエッセイの中でも、コレはかなりおもしろかった。
fanとしては、オーケン先生が普段考えていることや、何気ない日常でもすごい楽しめるんだけれども、fanでない人にはおもしろくないかもしれない。

 この「脱力旅の世界」は、オーケンが思わず脱力してしまうようなヌルイスポット・非日常を求めてちょっと旅をする、といった形式だ。
旅とはいえないような近所であっても、「旅だなぁ」とおもえるような、非日常の雰囲気がそこにはあるよね。普段立ち寄らない施設とか、お店とか、そういうのを巡るだけでも十分旅気分だ。

「I温泉のストリップ劇場で、ジム・モリソンが踊っているのを見た」という情報をたよりに、ストリップ劇場へ赴くオーケン先生。「ストリップ劇場ってそんな場所なのか……」という感じに、見事に夢やイメージが壊されるような、現在の場末のストリップ事情も垣間見れる。いやなもんだな、ストリップって……あ、ちなみに、本当にジム・モリソンが踊ってたわけではないですよ。

 私が現在住んでいる、京都の祇園祭前々夜祭の「宵々山コンサート」へ出場した思い出とか。

免許取りたてのオーケン先生が運転する車で、事故寸前のギリギリドライブを経てマザー牧場へ行く……とか。

長野の温泉に行った話もよかったな、いまどきそんな時がとまったような「ステロタイプな」温泉街が存在するのか。逆に行ってみたい。

 他にも脱力するような旅の様子がいろいろ書かれているのだが、
最後の締めくくりは新宿二丁目……!
非日常のオカマさんやゲイの方々を、なんと女の子づれで見学(?)。
かなりストレートにエロくヤバ目だった二丁目の姿に絶句するオーケン、そして読者……(笑)エロネタで笑えない人は読まないほうがいいかも。

 オーケン先生のfanじゃなくても、十分楽しめる上に「新しい旅の楽しみ方」も発見できるかもしれない良書。イヤーな旅館とか、ありえないほどしょぼいサービスなどに出会ったときも、積極的に楽しんじゃう気持ちで旅を楽しみたいものであります。
posted by 藤村阿智 at 00:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説・エッセイなど | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月17日

こちら救命センター 浜辺祐一・集英社文庫


こちら救命センター 浜辺祐一

 病院関連の話は好きなので「病棟こぼれ話」とサブタイトルもついて、数ページに1エピソードのエッセイタイプの本書は読みやすいこともあり、速購入。
 内容は期待通りで、病院内でおきたエピソードを紹介しつつ、関係者の本音や感情をきっちり書いている。

 本当は病気でもないのに、重病だったり病名がつかないと気がすまない人たちとのやり取りなど、実際に「あるだろうなぁ」という現場の苦労が目に見えるように読み取れる。
しかも救命救急センターで働く医師だからこその「現場」も見えてくる。
 事故で重症をおった患者や、自分で好き勝手に暴走・自殺した挙句の患者など「助けても植物状態になるだろう・又は死にたがってた患者」という、助けてもつらい結果ばかりが残っている場合も多いという。
 そんな現場でも、必死に患者のことを考えて、時にはきつい言葉を浴びせたりするのもまた治療・救命のひとつになってるんだよね。

 短い話の中でも心を動かされるし、またほのぼのとした話題も間にはさまっていて、さくさくと気負わず読めるところもいいところだと思う。
 「死にたがっている・死んだ方が良かったかもしれない患者をどうしても助けなければいけないのか?」という、医療現場モノには必ず付きまとってくる疑問も書かれる。
 実際、病気と老いの苦しみから自殺した患者を助けたものの、結局数ヵ月後には苦しんだ末に病気で亡くなった……というエピソードなどは、非常にやるせない、何をしても後悔が残りそうなつらい状況ですよね。

 私もその点はいつも「自分が現場にいたら一番つらいだろうなぁ」と思うところなんですが、こないだ偶然ネットで「死にたいと思う気持ち、コレがすでに治すべき病」というコラムを読んで救われた気持ちでした。全ての生き物は生きていたいと願うはずで、死にたくなる感情や環境は治していく必要があるんですね。そう思えば、誰かを生かすことも大切なことですな。

 そんな風に考えながらも、気楽に少しずつ読める文庫本だったので、オススメです。電車で通勤時に読んでいたら、エピソードによっては涙が止まらず……ちょっと変な人になってしまいましたが(笑)
posted by 藤村阿智 at 15:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説・エッセイなど | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする